違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ダンサーじゃないのに踊りたがる人々

阿波踊りで有名な『踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃ損損』は実は人間心理(日本人心理かも)の深さというか浅さを示しているのかもしれない。

 

Wikipediaよると、

 

阿呆(日本語: あほう、あほ・英語: Idiot・中国語: 白痴)は、愚かであることを指摘する罵倒語・侮蔑語・俗語。近畿地方を中心とした地域でみられる表現で、関東地方などの「馬鹿」、愛知県などの「タワケ」、石川県・富山県・島根県出雲地方などの「ダラ」に相当する。行動の愚かさだけでなく、学のなさなどもさす。また、そういう人のことを指す。「馬鹿」と同じ意味を持つ。

 

 

 

塵も積もれば山となると言うが、積もる塵よりも塵を集めるために払ってる無駄が多いことには気付かず、差し引きするとマイナスだということに気付かない人のなんと多いことか。

 

水原一平さんのギャンブルスタイルのようだ。

 

その答えはきっと『だって踊ってるんだもん』だろう。

 

 

行列をつくる心理とも共通してそう。

 

 

消費税導入前の駆け込み需要などもだ。

 

安く買うのは賢明だが、そこに期限が設けられると、あるいは別の何らかの条件が設けられると阿呆合戦が始まり踊りたくなる。

 

行列ができるような場ならばライバルは他の阿呆に見えるが、真のライバルは目先の損得の目先と未来の区別をつけられずに踊ってしまう自分自身なのだ。

 

逆にいうと、踊らせる仕掛け人は賢い商売人と言える。

 

きっと初期の行列に並んでる人の中にはサクラがいたはずだ。

 

そんなサクラが以前盛んに使われたリア充に見えたことだろう。

 

 

人間社会はダンサーでもないのに踊る人で溢れているのだ。

 

わらしべ長者に学ぶこと

わらしべ長者という昔話を知ってる人は多いだろうが、きちんと理解してる人はどれくらいいるだろうか?

 

わたしは中途半端な理解をしていた一人だ。

 

わたしが理解していたわらしべ長者とは、自分が持ってるモノを物々交換で価値を上げ続け最後は大金持ちになるというものだった。

 

現代で言うところの転売サーフィンの繰り返しのようなものだ。

 

しかし、実際のわらしべ長者の物語は、自分が持ってるよりももっと役に立つ人がいるから自分の持ってるものを上げその際に相手から感謝されそのお礼に相手が持ってるものを受け取る、あるいは相手からあなたの持ってる〇〇とわたしが持ってる△△を交換してくださいと持ちかけられるということを繰り返していたという物語で、やってることは転売風でも気持ちも状況もまるで違っていたのだ。

 

 

 

わらしべ長者の話でもっとも重要な点は、ただ相手に優しくしたというよりも、優しくするに値する人に優しくしたという相手を見抜く目を持っていた点だ。

 

これは現代にこそ必要な視点だ。

 

ついでに言うと、わらしべ長者の儲かり話はすべて未来に向かう話で、過去を高く評価させるという展開ではない。

 

 

わらしべ長者の話からの教訓を整理すると、

 

  • 他人にとって価値があるものが自分にとって価値があるわけではない

 

  • 他利を考えられる心の余裕は長所になる

 

  • 意識は過去ではなく未来に向ける

 

 

そして現代ならではの要素として付け加えたいのが

 

  • 困ってる人と困ってるフリをする人の見分けがつくか

 

  • 助け甲斐のある人と助け甲斐のない人の見分けがつくか

 

付け足した項目は意地悪のようにも感じるが、これは結構重要なのだ。

 

そして不幸なことに取り違え判断は頻繁に発生するかもしれない。

 

 

だからこそ目利き力が必要になる。

 

目利き力は取り返しがつく範囲での失敗が役に立つ。

 

 

とかく現代人は人を利用することを考えたがる。

 

資本主義の行き詰まりの一つの理由はそういうところだろう。

 

利用したいが利用されるのはイヤ、何かの判断や決定をするたびに正しく利用できてるか、利用されてないかを常に考え構えるようになっている。

 

正しく利用できることは得や儲けで、利用されることは損。

 

そんな価値観で武装してるはずなのに詐欺被害は増える一方。

 

 

温故知新なわらしべ長者の話は新鮮だった。

 

 

 

自分探しというライフワーク

あんなに好きだったのに今は何とも思ってない、場合によっては嫌いにすらなっている、そんなことは誰にでもあるかもしれない。

 

思い当たる人はすでに具体的な何かを思い出してるはず。

 

該当するのは人間関係だけではない、趣味や遊びなど極めて個人的なものまである。

 

きっかけは何だったのか?

 

脳裏をよぎる一般的なことばは飽きただ。

 

 

飽きたを広く解釈すると、必要が無くなったも含められるし、優先順位が下がって割り当てる時間が無くなったも含まれるし、予定調和ばかりで新鮮な感動が無くなったとも言える。

 

大事なのは飽きた理由だが、それは人それぞれだから単純化は難しい、だから飽きもせず続けてるものを考えたい。

 

誰にでも当てはまるのが自分自身だ。

 

自分自身に飽きないために続けてることがあるから人は生き続けてるのだ。

 

いろいろな理由や理屈や大義名分をつけるから生き続けられるのだ。

 

しかしそんな理由の数々は実は真の理由ではない。

 

だから自分探しがやめられなくなる。

 

自分探しという表現はバカにされがちだが、自己実現を追求すると置き換えても意味はまったく同じ。

 

 

人間社会も弱肉強食だと言われるが、本当に弱肉強食だったら自分探しや自己実現なんて概念が出てくるわけはない。

 

 

自分自身を続けるためには、自分が納得できる理由が必要になる。

 

自分が納得できる理由を、自分自身を相手にプレゼンを繰り返し続けるのが生きるということで、それが死ぬまで続くのだ。

 

この作業を楽しめる人が幸せなのは言うまでもない、他人からどう見えてるかはあまり関係ないのだ。

デジタルファブリケーション

グローバル化で加速した、グローバル化が加速させたのが大量生産&大量消費。

 

 

生産される商品には一定の寿命があることと、新しい商品の方がスペックやデザインが向上するので大量生産&大量消費は繰り返される運命にある。

 

しかし、この繰り返されるサイクルには意識されにくい負の側面がある。

 

大量の廃棄物が出ること、またスペックやデザインが継続的に進化することで欲望の飽和のようなそれ以上を望む気持ちが薄らぐようになる。

 

それによって大量消費の一角が崩れ始める。

 

そうすると、一部の市場で評価が高い商品の単価の上昇が起きる。

 

評価が高いわけではない商品は単価の下落もしくは在庫の増加が起きる、これをどう捌くかが重要になる、捌けなければ新品にして廃棄の運命だ。

 

捌くためには騙す必要がある、騙すという表現以外だと錯覚させるが相応しいはず。

 

最近の世の風潮の根底には大量生産の行き詰まりがあるのだ。

 

大量生産を支えてきたグローバル化を初期の段階で支えたのは多くの労働者だったが、人から機械化自動化と主流が置き換わったことで大量生産のレベルが桁違いになったことと品質の差がなくなった。

 

大量生産の次のステージはどうなるのか?

 

大量生産のあり方が変わるのか、それとも大量生産の否定が導く次の何かの登場か?

 

3Dプリンターのように一定の条件下では一品物のオーダーメイドが簡単に作れるようになると、大量生産の一角はさらに崩れるようになりそうだ。

 

3Dプリンターに限定すると小さな世界に感じてピンとこないのでここはデジタルファブリケーション(総務省)と広く捉えたい。

 

(出典)総務省情報通政策研究所「ファブ社会の基盤設計に関する検討会報告書」(平成27年)

 

デジタルファブリケーションによるメリットは複数あるが、第一にはこれまでの製造技術では作製困難なものが作製できる点があげられる。加えて、個人レベルでの新しいものづくりが可能となり、これまでものをつくる行為に携わっていない人々のものづくりへの参画や、「Fab Lab(ファブラボ)」と呼ばれるデジタルファブリケーション機器が設置された施設を使うことで、組織に属さずとも高度な工作機器を使用した自由なものづくりが可能となり、新しいイノベーション、新しい経済、新しい働き方が生まれると期待されている。

 

 

 

 

幸か不幸か、人間は時代を逆行できない。

 

今が行き詰まっても、前に進むしかない。

 

 

デジタルファブリケーションは、壮大なことも可能だがそれ以上に個人レベルにとっても上手く利用できれば革命なのだ。

 

 

まだまだこれからの領域なので今からアンテナを張っておくと良いことがあるかもしれない。

 

 

最上級表現のリスク

すっかり日本語として定着したベスト(best)という概念は言語明瞭だが意味不明でもある。

 

goodの比較級がbetterで最上級がbest、昔は英語の授業で教わったことだが、今では幼稚園児でも意味を理解せずに使うことがあっても不思議ではない。

 

日本語だとベストは『尽くす』ものとされ、暗黙のうちに何か条件がつくことが多い、『現時点の』や『自分なりの』などと。

 

つまり、よくよく考えるとそれってベストではなく、あまたあるbetterの一つなのだ。

 

ベストは深く厳密に考えると概念上だけの存在でしかないのに、中途半端な人が使いたがるので巷には多種多様なベストが溢れている。

 

何事にも真摯に向き合う人だときっとベストという表現を用いることに抵抗があるはず。

 

しかし、日本人の多くに馴染みがあるのはベスト10などというベストと数字の組み合わせでの順位表現、誤用といえば誤用だがそのおかげでベストの大安売りが定着したのだ。

 

人を説得したい納得させたいと意図する時には通用する最上級の表現を使いたいのが人情だが、使うことに抵抗を感じてる人は使えない。

 

何も考えずに使う人あるいは抵抗なく使える人は自分の発言に自信を持ってると好感を持たれる、それが詐欺を成立させる要だとすると、やっぱり騙す側よりも騙される側に問題があると言えるだろう。

 

最上級表現が好きな人は危険だ。

勝負の世界

勝負に関することわざや慣用表現は以下のようにさまざまある。

 

  • 勝てば官軍負ければ賊軍

 

  • 勝負は時の運

 

  • 勝負は下駄を履くまで分からない(下駄を履くとは帰り支度をするという意味)

 

  • 勝負は戦う前に決まってる(ついている)

 

  • 負けて勝つ

 

  • 負けるが勝ち

 

 

どれもが同時に成立することはないが、そのいずれもが状況次第では、いつ、どこで、誰が(に)、何に関して、どのように、起きてもちっとも不思議ではないことを私たちは知っているし感じている。

 

要になるのは5W1Hの残された一つであるなぜだ。

 

なぜに関して番狂せや想定外が起きる場合には、広い意味での盲点が隠れている。

 

このなぜに答えがありその答えに再現性があると期待すればこそ、そのなぜの答えは秘訣やノウハウとして珍重される。

 

しかし、その秘訣やノウハウはテクニックのようでもあり心理学の駆使のようでもある。

 

いろんなことが分かれば分かるほど状況の説明や解説はできても再現性があるとは思えない部分も感じられる。

 

 

勝ち負けというのは単純ではなく複雑だということだ。

 

勝ち負けがスポーツのようなものであっても奇跡や偶然のような要素が決め手になる場合は少なくない。

 

現実の人間社会ではスポーツの奇跡や偶然の代わりに騙しや暴力や脅しが機能することが多い、その場合の騙しや暴力や脅しはある意味では心理学の駆使でもある。

 

 

勝ちたいと思う人はいても負けたいと思う人はいない。

 

負けたいと思う人はいないが、負けても構わない、なんなら負けてあげる、そんな気持ちになることはあり得る。

 

 

勝負の世界にはさまざまな思惑が渦巻いている。

 

 

勝負などしていないという勝負の世界すら存在している。

 

 

つまり、すべての人が、生きている限り勝負をしているのだ。

 

いったい誰と戦っているのか、何と戦っているのか?

 

そのことに対する答えは持っておいた方が良いだろう。

純と鈍

紙と向かい合ってきちんと字を書くことが極端に減ったので、『あの漢字はどう書くんだったっけ?』と思うことがしばしばある。

 

今日も突然わたしの脳内で鈍器や愚鈍の『鈍』と純粋の『純』がごちゃ混ぜになってることに気付いた。

 

ゲシュタルト崩壊の一種なのか、老化なのか、それよりも昔から何事も中途半端だったからかもしれないとも感じる。

 

 

使われ方から鈍にはにぶいという意味や角が丸いという意味があることはよく分かるが、純もピュアの意味合いで騙されやすいというニュアンスを感じると愚鈍に通じるなと思えることから、わたしの脳内ではこの二つの漢字はごっちゃになってしまったのだろう。

 

 

今さらながら純の意味を調べると、混じり気がないと出る、まさにピュアだ。

 

由来としては、蚕の繭から糸を作る作業が糸の純粋さを高める作業でありかつ糸をより合わせる作業だからで、屯にたむろするという意味があることとの合わせ技のようだ。

 

では鈍はというと、刃物の切れ味が悪いや、反応が悪いという意味、由来としては鋭さが薄れ丸みを帯びた状態を指すようだ。

 

鋭い刃物も集めて重ねると鈍器状になると解釈すると、優秀な人を集めた集団なのに大して機能しない集団がいることに通じるなと感じる。

 

 

本来の意味とは違うのに、取り違えて使っても実害はほぼ無い漢字はたくさんありそう。

 

世代が異なるとあるいは同じ人でも年月を経ると、同じことばでも意味が変わることなんて何の不思議もないと気付く。